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a 順 杉村 3 éve

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小崎哲哉『現代アートとは何か』

ヴェネツィア・ビエンナーレは、現代アートの最前線を体感できる世界的な祭典であり、1895年から続く伝統を持つ。各国の最新のアート作品が一堂に会し、アート界のオリンピックやワールドカップと形容されることもある。この祭典は、現代アートのシステムを動かす特権階級の人々が集まり、アートの価値を決定する重要な場となっている。彼らの選択がアート史に刻まれることを意味し、その影響力は計り知れない。

小崎哲哉『現代アートとは何か』

第40回美読会【小崎哲哉『現代アートとは何か』】

「主張の種類や、主張の及ぶ範囲に配慮しつつ議論を進める」 人の話をきちんと聞いて、相手の言わんとすることを理解し、どこまで同意できてどこに反論できるか、どうしたら話が前進していくかといったことを、相手と一緒に考えていくこと。また、自分の好みを成り立たせているのは何かを真摯に見つめ、しかも、自分とは好みが違うひとが存在することを常に念頭に置いて話を進めること。

The Astrologer Who Fell Into A Well 展 http://theastrologerwhofell.com 参加作家: メラニー・キング、エリック・ラスディマ、シーナ・ローズ、セミコンダクター、ジェーン・アンド・ルイーズ・ウィウソン 企画:ジュリア・ウォー

ともに人間の想像力をかき立てるものでありながら、それぞれ目指すところを異にするとされるアートと科学。本展は、両者の間での対話を試み、現代人にとっての宇宙空間(outer space)について思考を深めながら、アート表現の新たな可能性を探るものである。展覧会タイトルは、星を眺める行為を語るイソップ物語からの引用。星に魅入られて井戸に落ちた占星術師のアナロジーを引き受けつつ、さまざまなメディアによって疑似的な宇宙体験が身近になったいま、逆にそのことでおおい隠されているものはなにかを問う展示となる。本展は、Waugh Office(英国を拠点とするアートエージェンシー)所属の英国人キュレーター、ジュリア・ウォーがセレクトしたアーティスト(メラニー・キング、エリック・ラスディマ、シーナ・ローズ、セミコンダクター、ジェーン & ルイーズ・ウィルソン)による映像、インスタレーション、写真作品などにより構成される。

目次

序章 ヴェネツィア・ビエンナーレ——水の都に集まる紳士と淑女 I マーケット——獰猛な巨竜の戦場 II ミュージアム——アートの殿堂の内憂外患 III クリティック——批評と理論の危機 IV キュレーター——歴史と同時代のバランス V アーティスト——アート史の参照は必要か? VI オーディエンス——能動的な解釈者とは? VII 現代アートの動機 VIII 現代アート採点法 IX 絵画と写真の危機 終章 現代アートの現状と未来

終章 現代アートの現状と未来

読む p407-413
日本のアートシーンの問題点 p407 ◎怠惰にして「へたれ」なジャーナリズム ・海外アートシーンについての基本的な情報も日本ではあまり流通していない。 ・重要な理論書や批評の翻訳も、欧米はもとより、中国、韓国、台湾などに比べて非常に少ない ・広告業界や芸能界によるアート作品のパクリなども、日本のアートジャーナリズム」はほとんど報じない。

◎教育の劣化と「絵画バカ」の悪影響 ・アート史が十分に教えられていない ・同時代の情報を学生に教えることも少ない ・先端的な理論や批評、さらには政治社会情勢など、背景事情を教員自身が知らないことが多く、理解が浅い結果に終わることが多い ・日本の学生に画家志望多すぎる ・世界の主流は映像やインスタレーション、あるいはプロジェクト型アートに移りつつあり、海外の芸術大学でも教育もそのシフトに添った形で変わってきている。 ・いま芸術大学で教鞭を執っているアーティストには、1980年代~90年代の「絵画の復権」に影響された「絵画バカ」が多い

スーパーフラット

アーティストの村上隆が1990年代後半、伝統的な日本絵画と現代のアニメやゲームを、平面性という観点から結びつけて、自作の表現などを語る際に使い出した造語。2000年に東京で、現代アーティストやアニメクリエーターの作品などを一緒に展示した「スーパーフラット」展を開催。その後、世界を巡回した。同時に刊行された同名書の中で村上は「Super Flat宣言」として「日本は世界の未来かもしれない」とうたい、「社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超2次元的。この感覚は日本の歴史の水面下を澱みなく流れ続け、特に美術にわかりやすく顕在化してきた。現在では、強力なインターナショナル言語となった日本のスーパーエンターテインメント、ゲームとアニメに特に濃密に存在している」とした。伊藤若冲(じゃくちゅう)や曾我蕭白(しょうはく)といった江戸時代の奇想画家の系譜と、現代日本のアニメクリエーターたちが生み出した国際競争力のあるオタク文化に共通して流れる感性や「肉体感覚」を、すくいあげようという試みともいえる。

p408-9 ◎ポピュリズムとエリ―ティズム ・美術館では大衆文化の展覧会が増えている ・「素人さんはお断り」と言わんばかりの、広報も説明も異常に少ない芸術祭が開かれることがある。

p409-10 ◎自治体の不勉強と不見識 ・これまでアートに無縁、あるいは無関心だった土地が右へ倣えでアートフェスを企画するのは不可解であり、滑稽でもある。 ・自治体の不勉強と見識のなさは、アウトサイダーアートの偏重にも現れている。 ・アウトサイダーアートは、ほんの一部の例外を除いて、基本的に福祉マターであって文化マターではない。

日本の未来、アートの未来 p410 ◎女性や若年層、若い作家の搾取 ・制作や広報は専門職であるにもかかわらず、低予算を理由に信じがたいほど安い謝礼でこき使われる。 ・アーティストへの謝礼も多くの場合、不当に安い。海外有名作家とのダブルスタンダードも存在する。

p411 ◎男尊女卑の業界構造 ・日本のアート業界の上層部はほとんどが男性である。 ・各美術館の述べ数百人に上る歴代館長の中で、たった5人 ・日本は女性の議員や管理職が少なく、調査対象114か国ちゅう114位である。

p412-3 ・日本のアートシーンにおける問題は、ほとんどが情報や知識の欠如に起因する。同時代的な情報や知識、歴史的な情報や知識の双方である。他国の状況を知らないから、自国の状況が当たり前だと信じ込んでしまう。歴史を知らないから、小さなミスや見逃しが将来に禍根を残すことに気づかない。日本は、このままでは世界のアートシーンから取り残される。日本という国が、同じ理由で世界から取り残されることもありうるのではないか。

Ⅳ オーディエンス 能動的な解釈者とは?

現代アートの3大要素 ・インパクト ・コンセプト ・レイヤー
p277-8 インパクト ・人がそれまでに見たり、聞いたり、感じたりすることのなかった衝撃を指す ・吉原治良「人の真似をするな。いままでにないものをつくれ」 ・美術史・アート史とは、果敢な試みに取り組んで失敗した大多数の屍が累々と重なる荒野に、ごく少数の成功者が突然変異の生命体を生み出した、残酷な進化史にほかならない。 ・例:「泉」の場合は、アートと言えば絵画と彫刻のみで、写真が認められるか認められないかという時代に、既製品の、それも小便器が「アートである」と主張された。

p278 コンセプト ・作家が訴えかけたい主張や思想、知的なメッセージのこと ・例:「泉」の場合は、「アートにおける既成観念の打破」と公募展(アンデパンダン展)という既存の制度の建て前と本音を嘲笑う「制度批判」 ・「R.MUTT」というサインを施したことも、サインさえ入れば何でもアートになるという、自動的・無反省的な作家性信仰の慣習を揶揄する。

p279 レイヤー ・様々な解釈が可能な動機や、別の主題を含んだ小さな仕掛けが重ね合わされている。 ・「layer」は層や地層を意味する英語 ・知的・概念的な要素と感覚的な要素、特に前者が、層を成して作品に組み込まれ、大きなテーマと響き合って作品に深みを与える。 ・作品に組み込んだレイヤーは、鑑賞者に様々なことを想像、想起、連想させる。その結果が作品全体のコンセプト理解に役立つ。 ・一般的に、良い作品はレイヤーが多く、深く、すなわち豊かである。

p286 ・現代アートはもはや「美」を志向していない。 ・スキャンダラスな素材も、抽象的な「指示」も、既存の作品のありようとかけ離れているカレーパーティも、すべては(感性とともに)知性を刺激する。 ・「現代美術」ではなく、強いて言えば「現代知術」と呼ぶべきだろう。

例:「泉」の場合(自由連想法) ・レディメイドは工業製品→フォーディズム ・陶器の白い色→消費者全般にみられる清潔志向 ・「R.MUTT」→便器製造「J・L・モット鉄工所」「漫画マットとジェフ」=「大衆の時代」を暗示 ・便器→当時男性の公衆便所は同性愛者たちの出会いの場 ・下半身を連想→クールベの「世界の起源」 ・ファウンテン→万年筆(ファウンテン・ペン)=(ペニス)

アングル『泉』

Ⅳ アーティスト アート史の参照は必要か?

読む p252-259
デュシャン『泉(Fountain)』1917

p252 ・2004年12月、ターナー賞の発表に先立って行われたアンケートで、アーティスト、キュレーター、ギャラリスト、批評家など英国のアート専門家500人は「最も強い影響力を持った20世紀のアート作品」に「泉」を選出している。 ・得票率 1位 マルセル・デュシャン「泉」64% 2位 パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」42% 3位 アンディ・ウォーホル「マリリン・ディプティック」29% 4位 パブロ・ピカソ「ゲルニカ」19% 5位 アンリ・マティス「赤いアトリエ」17%

p252 テート・ギャラリー元キュレーターのサイモン・ウィルソン 「10年前ならピカソかマティスが1位になっただろう。ショッキングな結果だが私は驚いていない。この時代のアーティストにとってはデュシャンがすべて。彼らが考えるアートとはこういうものにほかならず、昨今のターナー賞に選ばれる作品もこういうものだ」

p254 『泉』以後、現代アートは「何でも」ありになった。絵画、彫刻、写真に加え、今日ではビデオ、サウンド、インスタレーション、パフォーマンスなど、あらゆるものがアートと認められる。作品の素材や主題も、当時とは比べようもないほどに広がった。(=演劇的状況)

p257 ・デュシャン曰く「何かしらの美的楽しみには決して左右されなかった」 ・「この選択は、視覚的無関心という反応に、それと同時に良い趣味にせよ悪い趣味にせよ趣味の完全な欠如。実際は完璧な無感覚状態での反応に基づいていた」 ・「マット氏がみずからの手で泉を作ったか否かはどうでもよいこと。かれはそれを選んだのです。毎日の暮らしで使う平凡な道具をとりあげ、新しい題名と見かたを示し、役に立つものという意味あいが消えるようにしむけて、このオブジェについての新しい考えかたを創りあげたのです。」

p257-8 美学者ディエリー・ド・ドューブ 「レディメイドを前にして、観衆の方が遅れをとるという点を除けば、作者は観衆と異なった位置にあるわけではない。作者はまったくできあいの物体を選び、判断を下し、それを芸術と命名する。観衆は再び判断し、再び命名する。誰もがレディメイドを選択しうるのであって、そのためには、いかなる習得も、いかなる技術的手腕も、規則や慣例へのいかなる複縦も必要とされない。」

p258-9 批評家ボリス・グロイス 「過去数十年のあいだに芸術行為それ自体もまた大きな変容を経てきている。芸術家は、理想の芸術生産者から、理想の芸術鑑賞者へと変貌した」 「今日の芸術家はもはや生産しない、あるいは少なくとも生産することが一番重要なのではなく、芸術家は選別し、比較し、断片化し、結合し、特定のものをコンテクストのなかへ入れ、ほかのものを除外するのである。言い換えれば、今日の芸術家は、鑑賞者の批判的・批評的な眼差し、分析的な眼差しを我がものとするのである。」

p259 デュシャン 「どうして「つくる」なのでしょう。「つくる」とは何でしょうか。何かをつくる、それは青のチューブ絵具を、赤のチューブ絵具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せること、常に一定量の青を、一定量の赤を選ぶこと、そして常に画布の上に色を載せる場所を選ぶことです。それは常に選ぶことなのです。さて、選ぶには絵具を使うことができるし、絵筆を使うことができる。しかし、既製品も使うことができます。既製品は、機械的にせよ他人のてによってにせよ、こういってよければですが、すでにつくられているものであり、それを自分のものにできる。選んだのあなたなのですから。選択が絵画においては主要なことであり、普通でさえあります。」

「態度が形になるとき 作品―概念―過程―状況―情報」展 Live in Your Head: When Attitudes Become Form: WORKS - CONCEPTS - PROCESSES - SITUATIONS - INFORMATION

1969年スイスのキュレーターであるハロルド・ゼーマンにより同国クレストハレにて開催されました。コンセプチュアル・アートをはじめ、ポスト・ミニマリズム、ランド・アートなどのグリーンバーグ理論からの逸脱の見え始めた、作品の形式や形を重要としない概念的な要素の強い作品や、行為や客体を取り込んだ作品を紹介します。ゼーマンは史上初のインディペンデント・キュレーターと目されており、従来の美術館における展覧会を主宰する学芸員の役割とされていた作品の歴史的な価値判断や管理からその役割を改め、作家と共闘して前衛的な展覧会を作り上げる現在のキュレーター像を作り上げた存在とされています。

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Ⅲ クリティック

p115 ・「存在することは知覚されることである」(バークリー) ・非欧米諸国のアート界は、この言葉を実証すべきだという強迫観念に駆られている。知覚してもらうべき対象は言うまでもなく欧米諸国。そこで彼らの一部は、自国のアート媒体の英語化に腐心するようになった。 ・(経済の余力にある非欧米諸国)に英語あるいはバイリンガルのアート雑誌が生まれ、経済の失速とともに潰れていった。 ・中国の一部のアート媒体において、レビューが売買の対象になってりる(一文字一元(15円)」=売文(サクラの口コミ)
p116 評論家ジェリー・ソルツ 「この50年間で、今日ほどアート批評家が書いたものがマーケットに影響を及ぼさなくなった時代はない。その作品は悪いと書くことができても、それはほとんどあるいはまったく影響しない。良いと書くこともできるが、結果はおなじだろう。まったく書かなくても同様ではないか。」

p116 社会学者サラ・ソーントン 「アートマーケットがこれほど強大になったことはかつてなかった。カネがこれほど力を持ったこともなかった。かくも多くのアーティストがかくも裕福になり、かくも奇怪な作品が売りに出されることもなかった。評論家がこんなにも蚊帳の外におかれていると感じたこともなかった。」

p116 評論家ハル・フォスター 「アート批評家は絶滅危惧種である」 「制度的には、2種の批評家かはどちらも80年代と90年代に、新たなディーラ―、コレクター、キュレーターたちに追い出されてしまった。この一群の連中にとって、理論的な分析は言うに及ばず、批評的な評価はほとんど役に立たない代物だったのだ。実際、たいていの場合こうした事情は邪魔者扱いされ、悲しいかな、いまでは多くのアートマネージャーやアーティストが、批評的評価を回避することに努めている。」

2種とは「オクトーバー」と

「アートフォーラム」

p118 ・版型は正方形で30センチ ・発色の良いコート紙にフルカラーのオフセット印刷 ・年に10回刊行、300ページ ・半分以上をギャラリーなどの広告が占める ・発行部数は3万部 ・どれほど短くても展評が載れば、キャリアの浅いアーティストの未来は開かれ、アートワールドへの招待状を意味する。

p119-120 アンケート:『アートフォーラム』についてどう思うか? ・だいぶ前から見なくなっている。ペインティングはまったく載ってないし。 ・硬化的。 ・『アートボーダム』のこと?専門用語多すぎ。 ・記事はほとんど読まない。「広告」を見て情報を集める。 ・「広告」の内容は、すでに地位が確立された、著名な、あるいは物故したアーティストの展覧会を宣伝するもの ・雑誌は単に広告を収容する器に過ぎない ・これがニューヨークの、あるいは世界のアートシーンの現状を反映したものである。

p122 ・『アートフォーラム』はニューヨークを中心とする有力ギャラリーの広告を多数掲載している。 ・レビューの本数は多いが、大半は短い ・批評は硬軟両様 ・現代アート以外のカルチャー記事も少なくない。 ・アートワールドの人々は、批評を含め、記事は読まずに広告を見る

Ⅰ マーケット 獰猛な巨竜の戦場

スーパーコレクター大富豪フランソワ・ピノー ・1936年生まれ、フランスのブルターニュ ・フランスで5番目の資産家(総資産1兆7000億円) ・高校中退 ・グッチ、ボッテガ・べネタ、サンローシアガ、ステラ・マッカートニー、ブシュロン、プーマを所有 ・クリスティーズ(競売会社)を所有する ・巨匠ゲオルグ・バゼリッツの巨大新作絵画8点を10億円で購入 ・巨匠ジグマー・ポルケの絵画インスタレーションを丸ごと購入
ベルナール・アルノー ・ルイヴィトンの理事長 ・総資産4兆6000億円 ・世界13位の大富豪 ・モエ・エ・シャンドン、ドン・ペリニョン、ヴーヴ・クリコ、クリュッグ、ヘネシー、シャトー・ディケム。 ・ルイ・ヴィトン、ロエベ、セリーヌ、ジバンシィ、ケンゾー、フェンディ、ダナ・キャラン、マーク・ジェイコブス ・タグ・ホイヤー、ショーメ、ゼニス、ブルガリ  ・ル・ボン・マルシュ、サマリテーヌ ・ルイ・ヴィトン財団美術館

シェイカ・アル=マヤッサ・ビン・ハマド・ビン・ハリーファ・アル=サーニー ・1983年生まれ ・カタールの首長(8代目アミール)タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニーの妹 ・カタール美術館の創立者、また責任者 ・美術購入に利用する年間予算は10億ドル ・2013年の『アートレビュー』誌の『パワー100』で一位

ラリー・ガゴシアン ・1945年生まれ ・2003年以降「アートパワー100」で毎年ベストテンに入る ・2014年の売り上げは1100億円 ・ニューヨーク5軒、ロンドン3軒、パリ2軒、ビヴァリーヒルズ、ローマ、アテネ、ジュネーヴ、香港に各一軒

読む p56-64

「POWER 100」アート界を映す鏡の裏側 ・発表媒体の『アートレビュー』は1945年にロンドンで刊行 ・2002年に始められた企画 ・各国アート界の識者が匿名で寄せる助言に基づき、アーティスト、コレクター、ギャラリスト、批評家、キュレーターを影響力順にランキング ・外部から窺い知ることの難しい、現在のアート界の構造を知るための最も信頼性の高いガイド

アートワールド p61-62 ・ダントー「何かをアートとして見るためには、目が非難することのできない何かが必要とされる―芸術理論の状況(atmosphere)や、アート史の知識」 ・「アートを決めるのはアートワールドであり、それはアートを決める空気や知識のことである」

p61-62 ・ディッキー「アーティストとは、知性を備え、アート作品の作成に参加する人物でもある。アート作品とは、あるアートワールドの構成員に提示するために創作される、ある種の人工物である。構成員とは、彼らに提示される対象をある程度理解する準備のあるメンバーからなる一群の人々である。ジ・アートワールドとは、すべてのアートワールドのシステムの総体である。ある構成員に対して行うアート作品の提示のための枠組みである。」

p63 ダントーの反論 ・「(ディッキーの制度論は)基本的に、何がアートであるのかを決定するのは、要するに彼が言うところのアートワールドによって決められるべき問題だと述べている。アートワールドの定義は私のものとは異なる。ディッキーにとってのアートワールドとは、キュレーター、コレクター、アート批評家、アーティスト(もちろん)、さらに何らかの形で人生がアートに結びつけられている人々からなるある種の社会的なネットワークである。何かがアート作品だとされる。そして、アートワールドがそうであるかどうか判決を下すのだ。」 ・ディッキーの見解が正しいのであれば、一部のVIPだけが決めているという構造は「ナイト(騎士)の称号を授けることができるのは王や女王だけ」という騎士道の構造と瓜ふたつであるというわけだ。 ・「王様の頭がおかしかったら、ナイトの称号を自分の馬に与えるかもしれない」

ルソー「一般意思」 国家(政治体、政治社会)の全体および各部分の保存と幸福を目ざし、法律の源泉また国家の全成員にとって彼ら相互の間の、および各成員と国家との間における正と不正との規準となる政治原理で、この一般意志は公共の利益と個人の利益を同時に尊重する市民相互の結合によって生じるとされる。「人民の声」voix du peupleが真に「神の声」voix du Dieuであると述べる。

p56 ・毎年発表される「現代アート界で最も影響力のある人々」のランキングリスト ・ここに名前が挙がる人々は、ほとんどが「狭義のアートワールドの構成メンバー」 ・彼ら彼女らが、現代アート作品の価値と序列を決めている。

p58 (内訳) ギャラリスト    26~24名 アーティスト    22~24名 コレクター     15~18名 美術館館長     11~14名 キュレーター    9~12名 ディレクター    2~3名 アートスクール校長 2~3名 メディアの運営者  2~3名 オークションの責任者2~3名 哲学者(メイヤスー、ハーマン他)

p58 (国籍別) ・米国(三割)、英、独、仏、スイスは7割以上 ・アジア、アフリカ、中東、東欧、中南米は少ない 現代アートは欧米で誕生し、いまも欧米が中心地である

p60 ・アートシーンをつくる人々(プライマリープレイヤー)とアートシーンを後追いする人々(セカンダリープレイヤー) ・プライマリーの人々は、作品を作り、売り、買い、展覧会を企画制作し、それを宣伝する。 ・商業的なプレイイヤーと非商業的なプレイヤーの二分化 ・巨額の金がアートマーケットに注がれる時代に、批評の影響力が極端に衰えている

シーカ・アル・マヤッサ「地域の世界化 世界の地域化」

マヤッサ曰く 「私たちはこのグローバルビレッジに参加しようと努めています。けれども同時に、自らの文化的機関や文化的発展を通じて、私たち自身を変えつつあります。アートは、カタールの国民的アイデンティティの重要な一部となってきています。西洋のあるものが欲しいのではありません。自分自身のアイデンティティを、基礎を確立し、開かれた対話を創造したいのです。」

p46 とは言うものの… (カタール美術館の)収集した作品は、アート史がお墨付きを与えた傑作ばかり。そのアート史を編纂したのは西洋であり、カタールを含めた非西洋は一切「正史つくり」に関わっていない。

また p417 ・外国人労働者が全人口の9割近いカタールは、女王が先頭にたって高額な美術品を買い漁っている。 ・パナマ文書やパラダイス文書で明らかになったように、租税を回避するとともに資産の一部を美術品に変えている富裕層は世界中に存在する。

中東諸国で広まっている「カファラ制度」をご存じだろうか? カファラ制度(現代の奴隷制度)とは、カタールをはじめ中東諸国特有の労働契約制度のことであり、雇用者が保証人となって外国人労働者に職を提供し、ビザを発給するというもの。この制度の下で、強制労働、契約の書き換え、高額な就職斡旋料、雇用主によるパスポートの没収が行われることがある。

ルイ・ヴィトン財団美術館 フランク・ゲーリー設計

アルノー曰く 「私は「アート」という言葉が嫌いだ。デザインと建築が現代における真のアートだと思っている。我々のブランドは、その知名度を利用して、参加アーティストを世間に知らしめなければならない。

サブトピック

ピノー曰く 「アートは投資ではない」 「アートへの情熱を(多くの人に)共有させたいという私の思いは変わることがない」 「私には起業家としての顔とコレクターとしての顔があり、両者は決して交わらない。クリスティーズはビジネスとして買収したんだ。アート作品を買うときにはギャラリーにも行くし、クリスティーズにも、それ以外のオークションハウスにも足を運ぶよ」

序章 ヴェネツィア・ビエンナーレ 水の都に集まる紳士と淑女

p8 ・「現代アートを知りたいと思ったら、まずヴェネツィア・ビエンナーレを見に行けばよい」 ・1895年以来の伝統を誇る、最も格が高いアートの祭典。 ・各国の最先端アートが並んだショーケースだから作品のレベルは高く、いまのトレンドが一目でわかる。 ・(現代アートの)システムやメカニズムをつくり出し、実際に動かしている人々がほとんど集めっている。
p9 ・ヴェネツィア・ビエンナーレは、アート界のオンピックとかワールドカップとよばれることがある。ジャルディーニ(ヴェネツィア最大の公園)とアルセナーレ(ヴェネツィア共和国時代の国立造船所)の二つの主会場を中心に、各国パビリオンが金獅子賞を狙って争うことから付けられた異名だ。 p10 ・ビエンナーレのプレビューに集まる一群の紳士と淑女は、(中略)高いプライドとそれなりの利権を有している。「現代アートとは何か」と問われて即答できる人は専門家でも少ないだろうが、彼ら彼女らは、まさに現代アートの価値を決めている特権階級なのだ。 ・彼ら彼女らは、その「誰か」としてアート史に残すべき作品を選び出す。自らの死後も続くアートの正史編纂に携わる喜びと自負心、それに現世におけるささやかな、あるいは多額の報酬。

金獅子賞

9世紀、ヴェネツィア商人はアレクサンドリアにあった聖マルコの聖遺物をヴェネツィアに持ち帰った。それ以来、ヴェネツィアの守護聖人は聖マルコとされ、聖マルコを表す「有翼の獅子」もまたヴェネツィアを象徴するものとされるようになった。

ディレクターのオクウィ・エンヴェゾー ビエンナーレ2015への批判 P15 アートが担うべき役割のひとつ「社会状況への異議申し立て」 ステートメント「現在の世界状況は壊滅的で、混乱を極めている。暴力的な騒乱に脅かされ、経済危機への懸念、ソーシャルメディアで拡散される地獄の様相、分離主義的な政治によって、移民、難民や絶望した人々が、一見したところ平和で豊かだと思える土地に安息の地を求めるにつれて引き起こされる、公海や砂漠や国境地帯における人道主義の存続の危機によって、パニックに陥っている。」

p16 ・ビエンナーレは「移民、難民や絶望した人々」の側にたっているのか? ・世界を壊滅させている側に立っているのではないのか? ・今回、ビエンナーレが金獅子賞を受けたパビリオンは、オスマン帝国政府による自国人の大虐殺100周年をテーマとしたアルメニア館だったが、これも政治的なポーズあるいはカモフラージュに思える。 ・つまるところ、おまえたちは偽善者でなないのか?

p16-17 ・現代のアートワールドの繁栄は当のグローバル資本主義があってこそ。グローバルな交通、交易、通信、投資などによって資本をなした富裕層、つまり弱者を搾取する強者こそがアートワールドを支えていて、その頂点に立つのがヴェネツィア・ビエンナーレに他ならない。その事実を隠蔽して世界の暗部に光を当て、自らが弱者の側に立っているかのように振る舞うのは、偽善を通り越して犯罪的とさえ呼びうる。これは、エンヴェゾ―への本質的な批判と呼べるだろう。

エンヴェゾ―の共犯者 p17 ・アイザック・ジュリアン。会期中、毎日行われる『資本論』朗読を演出 ・自身が著名なマルクス主義学者のデヴィッド・ハーヴェイと語り合う映像インスタレーション「Kapital(資本)」 一方では、 ・自動車メーカーのロールス・ロイスに委嘱され、制作費を全額負担してもらい、新作映像インスタレーション「Stones Against Diamonds 」を作成 ・アート・バーゼルにおける一般公開に先立ち、ビエンナーレのプレビュー期間中に特別プレミア上映された。 しかも、豪華なレセプションパーティー付き。 ・「『資本論』と高級自動車」の構図

p20-21 ・アートワールドが宿命的に抱え込んでいる矛盾・撞着 ・「ヴェネツィアで観て、バーゼルで買う」 ・「反グローバル資本主義」というような建前がまず打ち出され、その向こうに本音が透けて見える二重性 ・虚実皮膜というか、本音と建て前の乖離こそが何ごとにおいても面白い ・アートワールドに入るということは、望むと望まざるとにかかわらず、グローバル資本主義の「勝ち組」に加担することである。 ・無料の酒に群がる寄生虫のような小ムジナもいれば、莫大な資産によって下々の上に君臨する恐竜のような巨大ムジナもいる。

ムジナはタヌキと同じく人間を化かす,また大入道その他の怪物の姿で人をおどすともいう。

芸術家とパトロンの関係

・古代より、芸術の分野のパトロンは、美術史において大きな役割を果たしてきた。 ・ヨーロッパ中世やルネサンス時代の芸術パトロネージュについてはすでに詳細がよく知られているが、封建時代の日本や伝統的な東南アジアの王国など、世界各地で行われた。芸術パトロネージュは、王室や帝国、貴族制が社会を支配した帝国主義や構造主義の世界においては、どこでも生まれる傾向があった。 ・為政者、貴族および富裕層は、芸術パトロネージュを彼らの政治的野心、社会的地位および特権を強化するために利用した。 ・フィレンツェのメディチ家などのパトロンは、高利貸しにより不正に得た富を資金洗浄するために芸術パトロネージュを利用した。

・芸術パトロネージュは、特に宗教芸術の創造には重要な役割を果たした。ローマカトリック教会や、後年のプロテスタントは、芸術や建築を支援したが、その成果は、教会、大聖堂、絵画、彫刻および手工芸品などに見られる。 ・19世紀に入って、ブルジョアと資本主義社会の形態が生まれて初めて、ヨーロッパ文化はパトロネージュ・システムから現代世界で周知の、より公的な博物館、劇場、多数の聴衆や大量消費による支援システムに移り変わっていった。 ・スポンサーの性質(本質)は、教会から慈善団体へ、また貴族から金持ちへと変遷していった

Isaac Julien: Stones Against Diamonds (Ice Cave) / National YoungArts Foundation, Miami

Isaac Julien: PLAYTIME(8:00~)

本書紹介

◉[書籍紹介] 現代アートを司るのは、いったい誰なのか? 世界的企業のトップや王族などのスーパーコレクター、暗躍するギャラリスト、資本主義と微妙な距離を保つキュレーター、存在感を失いつつも反撃を試みる理論家、そして新たな世界秩序に挑むアーティストたち……。日本からはなかなか見えてこない、グローバル社会における現代アートの常識(ルール)=本当の姿(リアル)を描きつつ、なぜアートがこのような表現に至ったのか、そしてこれからのアートがどのように変貌してゆくのかを、本書は問う。 さらに、これら現代アートの「動機」をチャート化した「現代アート採点法」によって、「難解」と思われがちなアート作品が目からウロコにわかりはじめるだろう。 アートジャーナリズムの第一人者による、まったく新しい現代アート入門。

書評

【推薦】浅田彰 多文化主義が多様な価値を生み出す一方、それらを通約するものといえばグローバルなアート・マーケットにおける価格しかない——そんな現状を打破するために必要なのは、批評の再生だ。 ただの情報コラムではない。勉強の成果をひけらかすために書かれる小難しい論文でもない。アートの理論や歴史から経済や社会の現実までを横断する真の意味でジャーナリスティックな批評。 『現代アートとは何か』は、そういうジャーナリスティックな批評のベースとなる最良のガイドブックである。

黒瀬批判

ワタリウム美術館: 小崎哲哉氏の新刊『現代アートとは何か』の書評。かなりストレートですね。日経新聞用にビジネス書的からアートの本質に迫ると、小崎さんの情報は一早い海外情報をベースにしているので楽しみ
黒瀬陽平@kaichoo ここ半年でこんな「アート本」が出てるわけだけど、出た順に、内容がwikiレベルの素人向けプチ教養本、「慶応メソッド」ばりの社交会話本、「成功者の自伝」もどきの何か、、こんなのが売れ、関係者も喜んで書評書いてる状態なら、リーディングミュージアム構想さもありなん、という感じ。

政府案の「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」とは何か? 文化庁「確定事項は何もなく検討中」

国内の美術館や博物館の一部を「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」として指定し、価値付けした作品をオークションなどで売却するーー。これは、5月19日に「YOMIURI ONLINE」で政府案として報道された内容だ。

「リーディング・ミュージアム」の仕組みはこうだ。まず指定された「リーディング・ミュージアム」が、アートフェアやギャラリーなどから作品を購入(あるいはコレクターから作品の寄付を受ける)。その購入作品の中から一定数をオークションなどで売却し、市場を活性化させる。

黒瀬陽平@kaicho5月5日: それ以前に、あの本は「海外のアートサイトをGoogle自動翻訳で巡回して得られるレベルのことしか書いてない」という事実をスルーしちゃダメだと思うけど、、

黒瀬陽平@kaicho5月5日 鵜呑みにするのはマズいんじゃないですかね。明らかな客観的事実だけ参考にして、著者の主観的な記述に関しては半々に聞いとけばいいと思います。

著者

小崎哲哉|Tetsuya Ozaki 1955年、東京生まれ。京都在住。 カルチャーウェブマガジン『REALKYOTO』発行人兼編集長。 京都造形芸術大学大学院学術センター客員研究員。 同大学舞台芸術研究センター主任研究員。 2002年、20世紀の人類の愚行を集めた写真集『百年の愚行』(Think the Earth)を企画編集し、2003年に和英バイリンガルの現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。 2013年には「あいちトリエンナーレ2013」のパフォーミングアーツ統括プロデューサーを担当。 2014年に『続・百年の愚行』(同前)を執筆・編集。近著は2018年3月に上梓した『現代アートとは何か』(河出書房新社)。
日本を含むアジア=パシフィックを中心に、現代アートの最新情報を紹介するウェブマガジン。 ニュース、おすすめ展覧会、アーティストインタビュー、動画記事のほか、SNS機能も備え、アート界のキーパーソンによるブログも掲載。アート界の動向を知りたい方はチェックすべし。

あとがき

p415 ・セオリーは言うに及ばず、ゴシップも現代アートを理解するための重要な要素だと僕は思う。現代アートが「美術」ではなく「知術」である以上、アートワールドの動きやアートをめぐる状況の変化は、作品の価値を大きく左右し、作品の読み方を変えることさえある。マーケットでは、作品の価値は分かちがたく結びついているが、両者の関係のみならず、作品のメッセージについて考えるためには、ゴシップにも敏感でなければならないだろう。 ・このどちら(セオリーとゴシップ)もが日本では、いやもしかすると欧米をも含む多くの国で、きちんと報じられ、論じられ、共有されていないかもしれない。そんな懐疑あるいは危惧が本書を書いた動機のひとつ。要は、現代アートについてまともに考えている人間がどれほどいるのだろうかという危機感である。